セラヤのランドマーク 【Bola del Agua】

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Estefania Juárez Herrera ミュージアム・オブ・セラヤ 地域歴史研究部

セラヤの象徴的 なランドマーク と言えば、給水塔【la Bola de Agua】でしょう。 水の供給源として、そしてこの町 のアイデンティティとして世代を 超えて親しまれ、今も町のシンボ ルとしてその存在感を示していま す。

円周41メートル、高さ44メート ル、深さは396メートルの井戸状の縦穴、建設以来1世紀以上もの 時を重ねたこの塔は、今も16,000 人の住民に生活水を供給し、第 二次産業革命とこの国最大の政 治事変の証人としてそびえ立ち、 産業遺産として、歴史的モニュメ ントとしても名を刻んでいます。

この給水塔の建設時のお話をい たしましょう。19世紀後半か ら20世紀の初めの頃、セ ラヤは多くの開発が行われ、掘抜き井戸の 開発もその中に含 まれており、その結果、町の各地に水の 供給地がすでに設 置されていました。

しかしそれまでは、20 世紀の初頭の典型的な 例として家で水を飲むに は、井戸などの水源から大き な容器に水を積んだAguadores( 水を運ぶ人)の助けが必要で、ま た一方、排水のほとんどはトンネ ルや地下のパイプに依存してい ました。

20世紀の始まりを向かえた頃、町 の進歩と発展のため当時の市政 府の政治部長であったPerfecto I. Arandaは、家に水を供給するた めプラントの建設を計画し、セラヤ市が抱えるこの問題の解決を図 りました。当時高価であったこの 塔の建設などを含む供給プラント の建設は、結果的に市民生活が 改善されるだけでなく、待望であ った産業の殖産を促し、町の発展 に寄与しました。

1907年にまず飲料水の供給ネッ トワーク構築のため、サンフラン シスコの修道院にある古い墓地 にスチール管用の穴を開けること が決定します。このプロジェクト には、セラヤでドイツ製金物店の オーナーであったアルフレド・フィ ンク【Alfredo Fink】を介して貿易 商社Schöndube & Neugebauer から2710メートルのマンネスマン (1800年後半に設立されたドイ ツの大手メーカー)製鋼管及びそ の付属品を購入しました。

そして給水塔建設にドイツのこの 会社を採用し、翌年、同社は、水 の供給を向上させるための球面 設計の油圧式給水塔建設をセラ ヤ市庁舎に提案します。この鋼管 を使用した設計は、1860年にドイ ツで考案されたもので、その後有 名技師であるPonciano Aguilarに よって改訂されました。 1898年にKlönne-Behälter (Klönneタンク)を完成させ、特許得てい たAugust Klönneが参加します。

その後、セラヤの給水塔の構造 が世に広く認められ、ドイツでは 1906年から1925年の間、蒸気機 関車を円滑に走らすために設置し たタンクの大半は、この給水塔と 同じ方式が採用されました。ヴァ ッサートゥルム(Wasserturm…給 水塔の意)と呼ばれるこの方式独特の構造は、現在でも見ることが できます。

このSchöndube社の採用におい て、ドイツ製金物店のオーナーで あったフィンク氏がやはり大きく 影響していました。セラヤのアビ ゲイル・カレーニョ・デ・マルドナド 【Abigail Carreño de Maldonado】がつづった年代記によれば、 「フィンクさんはすでにSchöndube社がドイツで、鋼管ケーブル を取り付けた油圧球式給水塔を、 ドイツのシュツットガルトで製造し ていたことを知っていました」と 書かれています。

ただし、このツイ ン型油圧球式は第二次世界大戦 で破壊され、ユニークな球体式の ものとしては唯一、セラヤの給水 塔しか残っていません。 運用及び保守コストなど財政を改 善するために、市行政は給水塔の 外壁を広告収入を得るための空 間として利用します。1933年から 1970年にかけていくつかの大企 業がここに広告を出しましたが、 市の創立400周年の1971年に広告 は禁止され、その後はシルバーに 塗られています。 これを読んだあなた。セラヤを訪 れたら、1900年初頭のノスタルジ ーが今も香るこの給水塔をぜひ 訪れてみてください。

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